ソシュールを超える哲学体系の組織化

陳那、ソシュールからの続きです。

さて唯識説では、八識の「相分」・「見分」において我や法に似た相が現れるのでした。

そういうことで、そこに対して、我や法に関する種々の「言葉」を立て、その結果、「言葉」に相応するような実体的な存在があると執着しているのだと主張します。

この説に反対する人がいます。

かれらは、実際に外界に我や法があって、それと共通の性質をもった「相」が、識の世界に現れるので、それに対して、我や法の言葉を立てることができるのではないかと主張します。

我や法に似た相が現れると主張する以上、そうなるであろう、と反論するのです。

真の実在(真事)と、それに似たもの(似事)と、その両方に共通の性質(共法)があって、「そのよう」と言葉を立てられるのだから、八識の流れの世界にたいして我や法という「言葉」を立てるには、すでに外界に真の我や法がなければならないはずだというのです。

元来、仏教はこころを一つのものとみません。

一つの心があって、種々作用するとはみません。

仏教では、多くの個別の心があって、それらが組み合わさって、心理現象が成立しているとみる、のだそうです。

その多種多様な心は、八つの心王(八識)と五十一の心所有法として分析されています。

それらはすべて、「相分」、「見分」、「自証分」、「証自証分」の四分を有するのだと考えられています。

心所有法は、心王なくして生起することはない、そこで、必ずや識と相応するがゆえに、識の語の中には、それら心所有法も含まれているというのです。

唯識説では、言葉を立てるべき世界について、単に混沌というのではなく、八識の「相分」・「見分」と、一定の理論化を果たしています。

ここに、ソシュールを超える哲学体系の組織化が見られます。

本来、八識が有るといえるのは、一刹那のみですが、言葉は、そのただ一刹那の世界に対してたてることはできないに違いないはずです。

このとき、時々刻々変化していく別々の五感が、しかも意識において記憶なども動員されつつ統合された世界に対して、言葉を立てることになると思われます。

その統合された全体像も、本来は刹那刹那の生滅の流れの中で相続されるのみです。

そこには、どんな意味でも、実体的存在はありえません。

あるのは、現象の流れの、いわば事としての世界というべきであって、そこに我や法の実体的な存在を錯覚し、認定し、執着してしまうのです。

唯識は、このように言語と存在の関係を克明に分析・究明しているのです。

分かった!!(オオウソ)