2009-05-01から1ヶ月間の記事一覧

意識は、脳の中に位置しているのでもなければ、脳の外側に位置しているのでもない

ケン・ウィルバーから3回目です。脳は、単純な位置を持った物理的な境界にすぎないと見ます。次からが理解しづらいところです。『意識の大部分は、単に物理空間に存在しているのでなく、情動的な空間、心的な空間、スピリチュアルな空間に位置している。』の…

意識はすべてのレベルにある

ケン・ウィルバーから読み解きの続きです。意識は物質的な脳に根ざしている、と思われています。しかし同時に、意識は「内面的な志向性」に同じように根ざしています。この「志向性」は、物理学の研究では説明することはできないし、またその方法では開示され…

「意識」はどこにあるのか?

こんな、基本的な問題について、ケン・ウィルバーから読み解きたいと思います。まず、意識は、どこか一つのところにある(局在する)のではないとします。結論は以下のとおりです。意識は脳だけに、あるいは生態系だけに、文化的なコンテキストだけに局在して…

『目撃者』とは何か

松永さんからです。 『目撃者』(witness / Saksin)ヴェーダンタの言葉 『目撃者にとどまる』とか『目撃者に安らぐ』とは、このawarenessそのままでいるということです。「蛙飛び込む水の音」に気づくのがawarenessです。 その時、全世界が出現するのです。し…

「アウエアネスAwareness」とは何か

今日も、松永太郎さんからの引用です。アウエアネスAwarenessは、「気づき」とも「意識」とも訳されます。今、蝉が鳴いています。 蝉の声とawarenessは、別のものではありません。 どこからどこまでが蝉の声で、どこからどこまでがawarenessなのか、その境界…

「あなたは、常にすでに、それである。」

松永太郎さんから引用します。 さて、表題にある「それ」とは何でしょうか?「スピリット」、「至高神」、「ブラフマン」、「心」などです。 これらは、「二番目のない一one without a second」を表す言葉でもあります。 また、プラトンの言う「遍満する神」…

空は、「無実体」だ

岡野守也先生の2回目です。西洋の哲学的な言葉の翻訳で、「他のものの支えなしに、それ自身で、いつまでもある」というようなものを「実体」と呼びます。①他のものの力を借りることなくそれ自体で存在する。 ②変わることのないそれ自体の本性を持っている。…

「空」とは、すべてがつながりあっていて、結局はひとつ、つまり「一」だ。

岡野守也先生の「よくわかる般若心経」から読み解きます。私たちが、「物」だと思っているものは、実はそういうものではないとします。 それは、果てしなくつながり、ひとつである全宇宙の現れ・働きの一部なのに、「言葉」を使ってその部分だけを見ることに…

空というのは「何ものかの中であるべきものがない」ということ

立川武蔵「般若心経の新しい読み方」より抜粋します。「色(しき)」とは、いろ・かたちあるもののことです。 空とは、要するに「空っぽ」ということなのです。ただ単に「ない」とうことではありません。「空」の本家本元の龍樹(りゅうじゅ)にあっては、世…

「本当の私」とは何か、そして「変容」とは何か

私達は、日々様々なことを考えています。何かを見て、何かを聞く、そこから関連してくる思いを紡ぎだしている連続なのではないでしょうか?そこから、幸せな話、生き方がポジティブになるパターンが多い人は、それだけで幸福でしょう。 しかし大概の人は、想…

「無自性−空−縁起」の立場(言葉について)

昨日の続きです。(大乗)仏教者たちは、常識的で日常的な認識のやり方が実体化の傾向に陥りやすいのは、「言葉の分節機能」から生じる誤解によるものと考えました。この、言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることです。人間は、自らの生の必要…

「無自性−空−縁起」の立場

これからしばらく、とらえきれない「空」という中身について見て行きます。頼住光子さんの「道元」から抜粋し、概観を見てみます。「本来的なもの」や「本質的なもの」を固定的に立てないという思考方法に関して、仏教的なやり方は、「無自性−空」ということ…

身体の感覚と「あたま」との使い分け

たとえばマインドフルネスに入り、過去が想起されるとき、それを表現しようとすると、「あたま」を使い、「言葉」で表現するようになります。この言葉というのは、条件付けられているエゴとは切っても切れないもので、「いまここ」で実感していることを、過…