心は心の中に映像を浮かべて対象を見る

昨日の続きです。意識の世界でいえば、心の中に言語の観念を浮かべてそれを認識しています。その場合、心の中で認識は行われています。ものを見るということに関しても、視覚という感覚の中に、視覚の対象が現れてそれを見ているのです。脳が対象(像)を作…

脳が作り出した映像を、脳が見るということ

唯識の第一人者、竹村さんの近著から紡ぎ出しつつ深めたいと思います。まずは、物を見るときのメカニズムの説明です。見るということを考えたときに、なるほど外側に物があるのかも知れません。しかし、その物の姿は眼球の水晶体を通って、網膜にその像が映…

利他心への道

書籍を読み進むうち、突然胸に突き刺さる文章に遭遇することが多くなりました。以下は、横山紘一さんの近著からで、「死」へ立ち向かう信条の中で生まれた宣言と推察しました。ここに記します。 「よし、自分の幸福などどうでもいい。生まれ変わり死に変わり…

ライフスタイルのシンプルな事実とは

バイオエナジェティックスのローエンさんからの教えです。現代生活の基本命題は「行為」Doingをとおして、自己を表現することだと彼は言います。この考えは、「存在」Beingをとおして、自己を表現するライフスタイルとは対照的であるとします。 たとえば、自…

私のアファメーション

私は、シンプルに、自然に、控えめに在ります。私は、自らに厳しく、謙虚です。私は、愛を持って人々と接し、思いやり深く、在ります。私は、私であることに、本当に幸せです。私は、愛に満ちて「いま、ここ」にいます。私は、愛そのものです。私は、生命そ…

ソシュールを超える哲学体系の組織化

陳那、ソシュールからの続きです。さて唯識説では、八識の「相分」・「見分」において我や法に似た相が現れるのでした。そういうことで、そこに対して、我や法に関する種々の「言葉」を立て、その結果、「言葉」に相応するような実体的な存在があると執着して…

「形而上学的な実体の存在」は存在しない

竹村さん、もう勘弁してください、です。さて、陳那という人がいて、「形而上学的な実体」は存在しないと考えていたそうです。そして、「言葉は自立的に存在する一般者を表すのではなく、たかだか、他との差異を表すにすぎない」というのです。桜を例に取り…

「自証分」、「証自証分」、「非量」?何のこっちゃ?

竹村唯識はさらに続きます。「自証分(じしょうぶん)」の見たものを、「見分」が確認するというように、「見分」と「自証分」との間で相互確認することを考えればすむことになりそうです。が??しかし、見るものを見るものは、見るものそのものをそのまま…

成唯識論「識体いい転じて二分に似る」

竹村唯識は続きます。「識体いい」とは、「識体が」「識体が」という意味だそうです。縁じられるもの、対象面が「相分」であり、縁じるもの、主観面が「見分」でした。あらゆる「識」において、あるいは「心所」においても、この二分が現れるのだといいます…

もう一度、初心に帰り、唯識を学びます

竹村さん、もっとやさしく教えてください!実は、「識」とは、単なる透明な主観ではない、いいます。簡単に言えば、「自分自身の中に対象像を浮かべて、それを見る(知る)もの」なのだ、といいます。(以上、基本でした。)たとえば、何かを想起し、考えて…

阿頼耶識にもとづく生死輪廻

今回もさらに、ムズカシイです。七転識(五感の識、すなわち「眼識」・「耳識」・「鼻識」・「舌識」・「身識」と、「意識」、「末那識」)が、もろもろの縁によって「種子(しゅうじ)」から生起して、各々の「識」の内なる対象を認識すると、その印象は直…

「識」は、すべて刹那刹那、生じては滅し生じては滅している。

これを「刹那滅」と言うそうです。生じるのは縁起の中で生じるのですが、滅するのは事前に滅すると言うそうです???としますと、二刹那以上、自己の同一性を保つものは、結局、常住の「実体」となるほかありません。ある一定期間、自己の同一性を保ったも…

マナ識は、何を思量するのか? 『我がある、我である』と思量する

竹村さんからの続きです。「我」というのは、昔から、「常・一・主・宰」と限定されると言います。つまり、常住(いつもある) 単一 主宰者であるもののことさらに、永遠不滅で、部分の集合体でなく、分けられないもので、主体であるもののことを言うそうです。…

識の所縁(すなわち対象)は唯だの所現のみなり

竹村さんによる、『解深密教』の解説より引用します。表題の意味は、こうなります。「識」が見たり聞いたり、認識しているもの(「識」の対象)は、その「識」自身の現し出したものだ、というのです。この全体が、「識」なのです。ですから、「識」という語…

阿頼耶識は、器世間(物質的環境)と有根身(身体)を維持している。

引き続きです。最初から理解に苦しむ内容です。 唯識では、「識」というものは、どれであれその中に、その「識」自身の対象を持っている、といいます。「眼識」は色を見ます。 実は、そのことは、「青なら青の色が現じる(現れる)」ということ以外ないのだ…

唯識観の観法とは何か

「修行」からの続きです。唯識観では、初めに、「実在する対象(所取)は、存在しない」ということを観察していきます。 そして次に、「それに見合う形の実在する主観(能取)もない」ということを観察していきます。なぜなら、「所取―能取は相対して初めて…

唯識とは文字通り、唯だ識のみ、と言うことである。

竹村さんから学びます。「識」とは認識の識ということのようですが、ここでは「感覚・知覚の総称とする」、つまり、「我々の世界は、自己を含めて、感覚・知覚そのこと以外には何もない」というのです。そしてそのことによって、「物や自我の実体は存在しない…

意識は、脳の中に位置しているのでもなければ、脳の外側に位置しているのでもない

ケン・ウィルバーから3回目です。脳は、単純な位置を持った物理的な境界にすぎないと見ます。次からが理解しづらいところです。『意識の大部分は、単に物理空間に存在しているのでなく、情動的な空間、心的な空間、スピリチュアルな空間に位置している。』の…

意識はすべてのレベルにある

ケン・ウィルバーから読み解きの続きです。意識は物質的な脳に根ざしている、と思われています。しかし同時に、意識は「内面的な志向性」に同じように根ざしています。この「志向性」は、物理学の研究では説明することはできないし、またその方法では開示され…

「意識」はどこにあるのか?

こんな、基本的な問題について、ケン・ウィルバーから読み解きたいと思います。まず、意識は、どこか一つのところにある(局在する)のではないとします。結論は以下のとおりです。意識は脳だけに、あるいは生態系だけに、文化的なコンテキストだけに局在して…

『目撃者』とは何か

松永さんからです。 『目撃者』(witness / Saksin)ヴェーダンタの言葉 『目撃者にとどまる』とか『目撃者に安らぐ』とは、このawarenessそのままでいるということです。「蛙飛び込む水の音」に気づくのがawarenessです。 その時、全世界が出現するのです。し…

「アウエアネスAwareness」とは何か

今日も、松永太郎さんからの引用です。アウエアネスAwarenessは、「気づき」とも「意識」とも訳されます。今、蝉が鳴いています。 蝉の声とawarenessは、別のものではありません。 どこからどこまでが蝉の声で、どこからどこまでがawarenessなのか、その境界…

「あなたは、常にすでに、それである。」

松永太郎さんから引用します。 さて、表題にある「それ」とは何でしょうか?「スピリット」、「至高神」、「ブラフマン」、「心」などです。 これらは、「二番目のない一one without a second」を表す言葉でもあります。 また、プラトンの言う「遍満する神」…

空は、「無実体」だ

岡野守也先生の2回目です。西洋の哲学的な言葉の翻訳で、「他のものの支えなしに、それ自身で、いつまでもある」というようなものを「実体」と呼びます。①他のものの力を借りることなくそれ自体で存在する。 ②変わることのないそれ自体の本性を持っている。…

「空」とは、すべてがつながりあっていて、結局はひとつ、つまり「一」だ。

岡野守也先生の「よくわかる般若心経」から読み解きます。私たちが、「物」だと思っているものは、実はそういうものではないとします。 それは、果てしなくつながり、ひとつである全宇宙の現れ・働きの一部なのに、「言葉」を使ってその部分だけを見ることに…

空というのは「何ものかの中であるべきものがない」ということ

立川武蔵「般若心経の新しい読み方」より抜粋します。「色(しき)」とは、いろ・かたちあるもののことです。 空とは、要するに「空っぽ」ということなのです。ただ単に「ない」とうことではありません。「空」の本家本元の龍樹(りゅうじゅ)にあっては、世…

「本当の私」とは何か、そして「変容」とは何か

私達は、日々様々なことを考えています。何かを見て、何かを聞く、そこから関連してくる思いを紡ぎだしている連続なのではないでしょうか?そこから、幸せな話、生き方がポジティブになるパターンが多い人は、それだけで幸福でしょう。 しかし大概の人は、想…

「無自性−空−縁起」の立場(言葉について)

昨日の続きです。(大乗)仏教者たちは、常識的で日常的な認識のやり方が実体化の傾向に陥りやすいのは、「言葉の分節機能」から生じる誤解によるものと考えました。この、言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることです。人間は、自らの生の必要…

「無自性−空−縁起」の立場

これからしばらく、とらえきれない「空」という中身について見て行きます。頼住光子さんの「道元」から抜粋し、概観を見てみます。「本来的なもの」や「本質的なもの」を固定的に立てないという思考方法に関して、仏教的なやり方は、「無自性−空」ということ…

身体の感覚と「あたま」との使い分け

たとえばマインドフルネスに入り、過去が想起されるとき、それを表現しようとすると、「あたま」を使い、「言葉」で表現するようになります。この言葉というのは、条件付けられているエゴとは切っても切れないもので、「いまここ」で実感していることを、過…