「形而上学的な実体の存在」は存在しない

竹村さん、もう勘弁してください、です。

さて、陳那という人がいて、「形而上学的な実体」は存在しないと考えていたそうです。

そして、「言葉は自立的に存在する一般者を表すのではなく、たかだか、他との差異を表すにすぎない」というのです。

桜を例に取ります。
桜は、桜として自立的にあるのではなく、たかだか梅でも桃でも柿でもない、つまり他ではないという、「桜以外ではないもの」、「桜でないものではないもの」、「非桜の否定」を表すのみだというのです。
(言語の意味論に関する「アニヤーポーハ(他の否定)理論」というらしい?)


さて、いきなりですが重要です。

言語学者の)ソシュールは、言葉は外界のすでに自立的な実在に応じてあるものではなく、むしろ混沌とした世界に対し、それをどのように分節してみていくか、その国語特有の分節の仕方を表すものにすぎない、と考えたそうです。

このとき、この言葉(名詞)の表すものは、自立的に存在するものや、ポジティブなものにはなりえない、といいます。

そこでソシュールは、言葉の表す意味は、隣接する他の言葉に限定されて定まるのだ、といいます。

つまり、「差異」によって「意味」が定まるのというのです。

言葉の意味(対象)は、決してポジティブには存在しないというのです。

この考え方は、「形而上学的な実体を想定すること」がごく普通であった西洋の思想界に、大きな衝撃を与えたそうです。


しかし唯識(あるいは陳那)は、もとより、同じような考え方をとっていた、というのです。

その背景には、やはり、一切の存在は「空」であるという、どんな実体的存在をも認めない大乗仏教の洞察があったのではないか、というのが着目点のようです。

とにかく、陳那は、ソシュールと同様、言葉の意味は「他の否定」であるという説のようです。

この点について、次回に続きます。