わたしと生命は一つである

さてもう一人、敬愛して止まないエックハルト・トーレの「ニュー・アース」からです。

人間は、自分自身という観念的なイメージを抱き、それとかかわりながら生きている、として次のように言います。

生命(人生)そのものも概念化され「私のいのち(my life)」というように、自身とは別個のものとして捉えている、と言います。そして引用します。

私と生命は別のものだと言うことになるから、大切な宝物だと思っている生命を失うこともあり得る、したがって、死が現実の脅威になる、と言います。

なぜなら、言葉と概念が生命を、それ自体は何のリアリティもない、二つの部分に分割してしまう。だから「私のいのち(my life)」という言い方こそ、分離分割という妄想のもとでのエゴの源泉だとさえ言える、と言っています。

ここからが白眉です。続きます。

私が生命と別に存在するなんてことがあるだろうか?生命や【Being(在ること)】と離れて、どんな「わたし」がありえるのか?まったく不可能だ、といいます。極めつけは続きます。

わたしが生命そのものなのだ。わたしと生命は一つである。それなら、どうしてわたしが生命を失うことが可能だろう?そもそも持っていないものをどうすれば失えるのか?わたしはわたしであって、わたしの所有物ではない。わたしがわたしを失うなど不可能だ。

強いメッセージです。

わたしは源である「在ること」から、その存在をあらしめているのであって、この世界を含めた、宇宙全体が「わたし」の世界なのです。

だとすると、「わたし」も「宇宙」も失うことなどありません。「わたしのいのち」と別個なものは初めからないのです。個別化する「いのち」は、ここではないのです。これこそ、最高の真理というよりリアリティなのではないでしょうか?

スピリチュアリティは、こうした源と分離していないリアリティを万物は持っているということだし、人間はそこに気づける可能性を見出している。そんなことを主張しているのです。

私たちへの問いかけについて、ますます多くの人が気づく時代になっているようです。ただし、こうした、おおきな枠というか流れを踏まえないと、目先の個体だけのレベルに留まりがちになりかねません。このことは、実際、筆者もそうなりがちなことで、もっと注意したいと思います。そしてそのことは、次代に引き継ぐときの、今の「気づきの世代」の責任であり、使命なのかもしれません。(やや気障)