心は心の中に映像を浮かべて対象を見る
昨日の続きです。
意識の世界でいえば、心の中に言語の観念を浮かべてそれを認識しています。
その場合、心の中で認識は行われています。
ものを見るということに関しても、視覚という感覚の中に、視覚の対象が現れてそれを見ているのです。
脳が対象(像)を作り出す働きを心といえば、心は心の中に映像を浮かべてそれを見るものであります。
それが心なのだ、といいます。
単なる透明な主観ではなくて、心は自分の中に対象像を浮かべてそれを見ているもの、ということになってくるわけです。
唯識の「識」の説明ですね。
心の中に見るものと見られるものがある。「見分」と「相分」の見事な説明です。
ここで展開すべき重要なことは以下の通りです。
我々が見たり聞いたりしているものは、脳が現し出したものかもしれない。
言い換えれば、心が現しだしたものかも知れない、というのです。
しかし、それを生み出すような時間・空間の厳然たる秩序のもとになる外界の物質的な世界があるのではないか、という問いにどう対応するかがポイントになります。
我々が見たり聞いたりしているものは、心の中に現れたものかもしれない。
しかし、その基になるものが、何か外界にあるのではないか、という考え方に唯識はどう答えたのかということになります。
唯識の場合は、意識下のアーラヤ識の中にそう言うものがあると考えました。
外界に相当すべきものは、決して心と独立した外界の存在ではないというのです。
ともあれ、唯識とは、ものと心は分かれていて、その心が世界を現し出すのではなく、心の中にその対象があるような、そういう心のみがあるということをいうようです。
説明になったでしょうか?唯脳論的な発想でしょうか?
脳が作り出した映像を、脳が見るということ
唯識の第一人者、竹村さんの近著から紡ぎ出しつつ深めたいと思います。
まずは、物を見るときのメカニズムの説明です。
見るということを考えたときに、なるほど外側に物があるのかも知れません。
しかし、その物の姿は眼球の水晶体を通って、網膜にその像が映り、その像が視神経を通って脳に伝えられる。
そこで網膜に映った像が視神経を伝わるというときに、物理的な像のまま伝わるのではありません。
細胞ごとに情報は分割され電気的な信号か何かで脳に伝えられるでしょう。
脳はその情報を解読して、映像を作り出します。
目の向こう側に映像を投影するのです。
こうして、少し反省してみますと、決して我々は外の物を直接見ているのではなくて、脳が作り出した映像を脳が見ていると考えざるを得ないと説明されています。
明日に続きます。
利他心への道
書籍を読み進むうち、突然胸に突き刺さる文章に遭遇することが多くなりました。
以下は、横山紘一さんの近著からで、「死」へ立ち向かう信条の中で生まれた宣言と推察しました。ここに記します。
「よし、自分の幸福などどうでもいい。生まれ変わり死に変わりしてでも、人々のために生きるぞ。自分は死なないんだ、否、死ねないんだ。」
利他心の王道へ向かうには、あまりに躊躇される自らの在りように、猛省を迫る一文であります。
ライフスタイルのシンプルな事実とは
バイオエナジェティックスのローエンさんからの教えです。
現代生活の基本命題は「行為」Doingをとおして、自己を表現することだと彼は言います。
この考えは、「存在」Beingをとおして、自己を表現するライフスタイルとは対照的であるとします。
たとえば、自己は、「あたたかい」、「理解がある」、「思いやりがある」、「生き生きしている」、「活気にあふれている」、「喜びに満ちている」とか、「悲しんでいる」、「怒っている」といった存在様式により表現される考え方です。
私たちは、また、献身的な母親、宗教の熱心な信者、頼りになる労働者などとして存在することも、自己の表現であるとしています。
さらに、女性であること、男性であることも含まれるのですが、こうした存在を通した基本的な自己表現は、普通、人生に深い充足をもたらしてくれるのだと力説しています。
このような充足の上に、「行為」から生じる自我の満足というものがあるのだ、というわけです。
ただ、その「行為」にもとづく自我の満足だけから、生の意味を引き出そうとすれば、やっかいなことになるのだというのであります。
そこで、人は行為から満たされないとますます行為に駆り立てられ、もっと大きな活動をくわだて、世界にもっと深くかかわろうとし、「もっとやらなければならない」という要求になるというのです。
これは、「あるがままの自分であることで、その存在が実現される」という単純な事実をまったく無視した要求であり、滑稽で有害であるとも評しています。
我々は、すぐにスピリチュアルなものにあこがれる側面もあるのですが、こうして特に「在ること」の源である生命エネルギーは、心身を通じ、その全体性を「生きる」のだと思います。
マインドが切り離したボディへの視点に回帰したい、そのような方向性が底にあるのだと思います。
私のアファメーション
私は、シンプルに、自然に、控えめに在ります。
私は、自らに厳しく、謙虚です。
私は、愛を持って人々と接し、思いやり深く、在ります。
私は、私であることに、本当に幸せです。
私は、愛に満ちて「いま、ここ」にいます。
私は、愛そのものです。
私は、生命そのものです。
私が私を失うなどありません。
私は、内なる声をしっかりと聞きます。
私は、心の奥底から沸きあがる、喜びをしっかりと噛みしめます。
私は、いつもワクワクし、人生を楽しみます。
私に必要なことはすべて、申し分のない時期に、心に浮かびます。
私が知る必要があることはすべて、私の前に明らかになります。
人生は本当に素晴らしく、私の世界では、すべてが完全で、
私は、もっと大いなる善きものの方へ、絶えず動いています。
ソシュールを超える哲学体系の組織化
陳那、ソシュールからの続きです。
さて唯識説では、八識の「相分」・「見分」において我や法に似た相が現れるのでした。
そういうことで、そこに対して、我や法に関する種々の「言葉」を立て、その結果、「言葉」に相応するような実体的な存在があると執着しているのだと主張します。
この説に反対する人がいます。
かれらは、実際に外界に我や法があって、それと共通の性質をもった「相」が、識の世界に現れるので、それに対して、我や法の言葉を立てることができるのではないかと主張します。
我や法に似た相が現れると主張する以上、そうなるであろう、と反論するのです。
真の実在(真事)と、それに似たもの(似事)と、その両方に共通の性質(共法)があって、「そのよう」と言葉を立てられるのだから、八識の流れの世界にたいして我や法という「言葉」を立てるには、すでに外界に真の我や法がなければならないはずだというのです。
元来、仏教はこころを一つのものとみません。
一つの心があって、種々作用するとはみません。
仏教では、多くの個別の心があって、それらが組み合わさって、心理現象が成立しているとみる、のだそうです。
その多種多様な心は、八つの心王(八識)と五十一の心所有法として分析されています。
それらはすべて、「相分」、「見分」、「自証分」、「証自証分」の四分を有するのだと考えられています。
心所有法は、心王なくして生起することはない、そこで、必ずや識と相応するがゆえに、識の語の中には、それら心所有法も含まれているというのです。
唯識説では、言葉を立てるべき世界について、単に混沌というのではなく、八識の「相分」・「見分」と、一定の理論化を果たしています。
ここに、ソシュールを超える哲学体系の組織化が見られます。
本来、八識が有るといえるのは、一刹那のみですが、言葉は、そのただ一刹那の世界に対してたてることはできないに違いないはずです。
このとき、時々刻々変化していく別々の五感が、しかも意識において記憶なども動員されつつ統合された世界に対して、言葉を立てることになると思われます。
その統合された全体像も、本来は刹那刹那の生滅の流れの中で相続されるのみです。
そこには、どんな意味でも、実体的存在はありえません。
あるのは、現象の流れの、いわば事としての世界というべきであって、そこに我や法の実体的な存在を錯覚し、認定し、執着してしまうのです。
唯識は、このように言語と存在の関係を克明に分析・究明しているのです。
分かった!!(オオウソ)
「形而上学的な実体の存在」は存在しない
竹村さん、もう勘弁してください、です。
さて、陳那という人がいて、「形而上学的な実体」は存在しないと考えていたそうです。
そして、「言葉は自立的に存在する一般者を表すのではなく、たかだか、他との差異を表すにすぎない」というのです。
桜を例に取ります。
桜は、桜として自立的にあるのではなく、たかだか梅でも桃でも柿でもない、つまり他ではないという、「桜以外ではないもの」、「桜でないものではないもの」、「非桜の否定」を表すのみだというのです。
(言語の意味論に関する「アニヤーポーハ(他の否定)理論」というらしい?)
さて、いきなりですが重要です。
(言語学者の)ソシュールは、言葉は外界のすでに自立的な実在に応じてあるものではなく、むしろ混沌とした世界に対し、それをどのように分節してみていくか、その国語特有の分節の仕方を表すものにすぎない、と考えたそうです。
このとき、この言葉(名詞)の表すものは、自立的に存在するものや、ポジティブなものにはなりえない、といいます。
そこでソシュールは、言葉の表す意味は、隣接する他の言葉に限定されて定まるのだ、といいます。
つまり、「差異」によって「意味」が定まるのというのです。
言葉の意味(対象)は、決してポジティブには存在しないというのです。
この考え方は、「形而上学的な実体を想定すること」がごく普通であった西洋の思想界に、大きな衝撃を与えたそうです。
しかし唯識(あるいは陳那)は、もとより、同じような考え方をとっていた、というのです。
その背景には、やはり、一切の存在は「空」であるという、どんな実体的存在をも認めない大乗仏教の洞察があったのではないか、というのが着目点のようです。
とにかく、陳那は、ソシュールと同様、言葉の意味は「他の否定」であるという説のようです。
この点について、次回に続きます。