『いのち』とは何か?『生命』とは何か?

個人的には、菅原浩氏の言う『存在を与えるエネルギー』または『存在を生み出すエネルギー』がとても好きです。いま、これが一番腑に落ちます。
さて、その前に、様々な見方を俯瞰して見ます。

まずは、『いのち』というのは、一つの生き物に一つしかないということ、一つ一つのいのちは、何百年も前から互いにかかわり合って、支え合いながら新たな『いのち』を生み出し、つながってきたという「事実」があります。
ですが、『いのち』という概念には、「個体化」の動きと「普遍化」の動きがあるというのです。以下は放送大学の大峯先生からの要約です。

(1)「一人一人がもっているいのち」と観念は固体化の方向です。
いのちは、個人の構成要素であって、個人が死ねば終わりになるか、あるいは体を抜けてどこか天国みたいなところへ行くことになる見方です。

(2)「いのち」というのは、個人の構成要素でなく、個々の「いのち」を貫通しているような普遍的なものだとする考え方です。これは、「いのち」は大きな流れのようなもので、人間もそのような流れに包み込まれて生きている。
人間も動物も森も海も、宇宙そのものも、そのような流れにある。
「いのち」とは、個人が部品みたいに体の中に蓄えているようなものではない、そのように考えることができるというリアリティの追求から来ています。
私のDNAは原始生物の時代から38億年も受け継がれてきている。「いのち」の流れはそれ以前、宇宙開闢以前から源流があるのかもしれない。そのように「普遍のいのち」を考える方が、「個人のいのち」よりもしっくりくるのでは、という考え方です。

この先生の帰結はこうなります。
人間は大いなる生命から「自分のいのち」をお借りして生かされている。お借りしているのは、自分の体と精神の統合された「全体としてのいのち」なのです。このいのちは、「大いなる生命活動」が貸してくださったもので、したがって自分が死んでも、大いなる生命活動は永遠の時を刻み、宇宙の続く限り、子々孫々に至るまで永続する、という考え方です。
どうでしょうか?その「全体としてのいのち」の営みを、どのように感じ、どう向きあっていくのか?そもそも、「大いなる生命」とは一体何か?「全体として」とは何を指すのか?
こうしたことが、現代社会の物質主義の限界を超えるときの「新たな生き様」になりうるかがポイントになるのかもしれません。

ちなみに、命とは、広辞苑によると次のようになります。
①生物の生きていく原動力、②寿命、③一生、生涯、④もっとも大切なもの